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2017.10.27(火)
第53回 「小池百合子氏の『排除』発言」(2017年10月27日)

ほぼ月イチコラム
時事問題がわかる BURNING MIND主席講師・井上晋の『賛否両論のための基礎知識』 第53回

超大型の台風21号がすべて経緯を吹き飛ばしてしまったかのような選挙の結果でした。
めまぐるしい政局争い、新党設立、離合集散が繰り返されましたが、終わってみると自公連立政権が変わらず2/3を保持する形となりました。
政権交代さえ期待された「希望の党」が失速したのは、9月29日の会見での「排除します」という小池党首の発言がきっかけとなりました。集まった候補者の顔ぶれ、小池代表の不出馬など、いくつかの要因はあると思いますが、まさに「風」が止んだ潮目は、「排除」発言でした。
私は、このニュースで「排除します」と発言している小池さんのビデオを見て、「あちゃ、強い言葉使ったな。」と思いましたがすぐに「分かりやすくて良いじゃない。」と思い直しました。「うまくするとこの発言は追い風になるのでは。」とも思いました。しかし結果は真逆で、私の考えは大きく外れました。
今回はこの「排除」発言について考えてみたいと思います。
私が「ひょっとすると追い風になるのでは。」と思った理由は、「排除」という言葉はこれまでの小池さんの主張と完全に一致していたからです。
小池さんの最初のスタートは、「都民ファースト」でした。その後も「○○ファースト」を訴え、都議会の古い体質を見直し、豊洲問題では過去の知事の決定を見直してきました。
私はこの「○○ファースト」と「排除」は同じことを言っていると理解しています。なぜなら、「○○ファースト」を行うということは、○○セカンド、○○サード、○○フォース、、、の人々、事象、価値を「排除」ないしは「軽視」もしくは「大切にしない」ということです。何かを一番にするということは、二番手以下を切り捨てるということにほかなりません。きっと小池さんもそのことはしっかりと認識されているはずです。
だからこそ、新党の設立会見でわざわざ「「寛容な」保守改革政党」とネイミングしたのだと思います。彼女の行おうとしていることは、決して寛容ではないからこそ、オブラートが必要だったと思われるのです。
「○○ファースト=排除」の例として、例えば「朝鮮学校への補助金支給停止」などは分かりやすいと思います。これは、都民の子供をファーストにするので、朝鮮人の子供は重要視しないという政策です。もしくは、朝鮮人の子供は将来的にも東京都や日本の利益にはならないので、排除する政策とも言えます。
「限られた予算を、みなさんの子供に優先的に使います」と言うのか、「予算が限られているので、支援枠から朝鮮学校は排除します。」というのかの違いで、政策としてはどちらも同じです。
この政策自体が悪いと言っているのではありません。
当たり前のことですが、何かを優先付すれば、他の何かが置き去りにされたり犠牲になります。これは、当たり前のことです。
大岡裁きで有名な「三方一両損」は、どこにもしわ寄せがいっていない良い話に聞こえますが、大岡越前の付け足した一両が税金と考えれば、この捌きは国民の負担になっています。
繰り返しになりますが私が今回問題視したいのは、小池さんの掲げた「○○ファースト」という方針ではありません。「○○ファースト」は政治団体であれば当たり前のことです。
問題にしたいのは、「○○ファースト」が表現を変えて「排除」となった瞬間に手のひらを返したマスコミであり国民の見識です。
「○○ファースト」の○○に自分が、もしくは自分の考えが入っているうちは盛り上がって応援するけど、いざ自分がファーストから漏れそうになるとすべてを否定しにかかる姿勢はなんなのでしょうか。そのマスコミ、その国民が支持したものはなんだったのでしょうか。
耳触りの良い言葉の表面だけを自分に都合よく解釈し、いざ厳しい言葉を聞くと途端に嫌悪感を示すのはどういった甘えの構造でしょうか。
少し話題がそれますが「働き方改革」は、労働者にやさしい改革なのでしょうか。表面的に捉えると、時短もされ、サービス残業も減り、ラッキーかもしれません。しかし、長期的には個人の成長機会を奪ったり、企業の競争力を落とす可能性もあります。そうしないためには、本当の意味で生産性を改善するための自助努力が求められます。つまり、「働き方改革」も誰かが良い環境を作ってくれ労働者が楽になる政策ではなく、改善に向けてのあくなきチャレンジや試練が経営者にも労働者にも求められる改革なのです。また、その自助努力がなされない人は排除される仕組みです。
選挙にも「たられば」はありませんが、もしもあのとき小池さんが耳触りの良い言葉で、例えば、「私どもの政策を真摯に伝え、できるだけ多くの方に賛同支援してもらいたい。」くらいにサラッと流していれば、風は吹き続け今回の結果は変わっていたのではないでしょうか。枝野さんをはじめリベラル派の議員たちも早急な対応をとらず、気が付いたら公示日となり、なんとなく新党に加担しもしくは排除され、マスコミも他に推す政党も見つけられず、、、となればその可能性も十分にあったと思います。
政治家の資質を云々いう議論がされて久しいです。しかし、その政治家を選んでいるのは私たちです。今回、私が学んだことは、投票行動以外にも世論調査や街角の声、草の根の活動などなどを通じて私たちは政治家を選び育てているということです。
政治家にでもなろうかという人は決して頭の回転が悪い人ではありません。むしろ賢く、情勢を見るに敏感な部類の人々でしょう。彼らは、今回の小池劇場の立ち上がりと失速を目の当たりにして、これまで以上に「国民には、厳しい言葉、現実を突きつける判断は示せない。」と刷り込まれたはずです。
「ファーストはOKだが、排除はNGだな。」
「しがらみ無しはOKだが、選別はダメだな。(しがらみのない政治なんてないのに)」
「財政の健全化はOKだが、福祉の削減はダメだな。」
「痛みを伴う改革より、疑惑を煽ったほうがいいな。」
などなど。
これは、つまり、政治家がこれまで以上に国民を信じなくなったということです。
「政治家をバカにする国民」と「国民を信じない政治家」のいる国、日本
自戒の念も含めて、全員が同じ穴のムジナに見えます。
全員が見えない糸で金縛りにあっているようにも見えます。
私たちの願いを政治家に託す。
支持者の思いを政治の場で実現する。
「投票行動が国民に与えられた唯一の意思表明の機会です。」というのは大きな間違いだと気が付きました。
ボランティア、草の根の活動、日々の情報発信、公聴会への参加、陳情を含む政治家とのコンタクトなどなど、もっと政治家と投票者との距離を近くする機会はあるはずです。
政治への信頼を取り戻す必要があると盛んに言われていますが、漠然とした政治家と国民の信頼関係を取り戻すというのは、現実感がない話です。
一人の政治家とその地域の支援者一人一人が、人と人としてのつながりを持つことから、次の一歩が始まるように思います。
皆さんはどう思いますか。

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